リフレーミングを再考する
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小学生の頃、体育の授業で水泳があった。私は泳げないわけじゃないが、どちらかというと平泳ぎが得意で、クロールは苦手だった。クロールでは顔を水につけた状態で泳ぎ続けると、思ったほど進まないし、だんだん息苦しくなってきて、顔を上げてしまう。今でもその傾向があるが、当時はもっとドキドキしながらクロールしていた。
ある時、「プールの短い方(25x17mのプールの17mの長さ)をクロールで泳げる人はいますか」といわれ、思い切って手を挙げてトライしたことがある。現在のようなゴーグルもなく、塩素含むバリバリの水で目が痛くなるし17mくらいなら大丈夫と思ったので、目をつむって一気に泳いだ。ところがいくら泳いでも対岸に着かない。おかしいなと思い、足を着こうとしたらズブリと沈んでしまい、パニックになった。幸い、先生が飛び込んで助けてくれたのだが。あとで聞くと、泳ぎの後半で右方向に直角に曲がって、水深の深いほうへ入り込んで、一番深いところで泳ぐのを止めて溺れかけたらしい。自分としてはまっすぐに泳いでいたつもりなのに、なんで右に曲がったのかわからない。少なくとも水中で目を開けていれば、こんなことにはならなかった。その時は、クラスメートに笑われるやら、先生の心配そうな顔やら、とにかく恥ずかしくてしょうがなかった。
今の地域医療の仕事をしながら学生を教える立場になって、ふと、この小学生の時の溺れかけた体験を思い出すことがある。
指導の立場から気づき、考えること
医学科4年生に文化人類学の方法を応用した地域医療体験実習を行っているが、その際に、医療現場での参与観察をおこない、そのなかで当たり前を疑う(問いを立てる)課題を出している。これは、観察した事象を再考し、異質馴化・馴質異化をおこなう頭の柔軟体操のようなものである。このプロセスは、観察→省察→相対化→リフレーミングというプロセスに要約されるが、学生によってこのプロセスをやわらかく受け止め、楽しんでいる人もいれば、「これは何の役に立つんですか?」「何を意図した実習ですか?」とけっこう批判的な学生や「全く興味ないです」と明らかに投げやりな学生もいる。当然のことながら、教育者としては楽しく考えてくれる学生に肩入れしたくなるわけだが、批判的な学生のポートフォリオをみると、「医学とは〇〇すること」「医師は〇〇であるべき」という思考が強いように感じられる。つまり、自分の中での医師像が、かなり硬く出来上がっている印象なのである。もちろん、プロフェッショナルな医師像をもつことは大切である。だが、この実習で問いかけたいのは、「自分の考える医師の役割やスタイル」をいったん括弧に入れて、素人の目で観察し考えてみてくださいね、ということである。じつは自分一人だけでこのプロセスをすすめるのは、なかなか難しい。私たち指導陣は、このプロセスを促すようにe-ポートフォリオ(ウェブ)上で、学生のポートフォリオに対してコメントを書き、フィードバックを行っている。彼らのリフレーミング、学びほぐしを手伝っている。先ほどの批判的な学生は、このリフレーミングに抵抗しているとも考えられる。「私の考えている医師像、医療像は正しい」とつよく信じ込んでいる学生ほど、リフレーミングに抵抗するのではなかろうか。
自分自身の過去を振り返ると……
自分自身を振り返ると、30代の頃、一心に実験に打ち込んでいた時期がある。当時の分子生物学の実験手法であるプラスミドや大腸菌の扱い、DNA、RNA解析方法など、最初の研究室で教えてもらった方法を、じつに頑固に守っていた。その後、熊本やアメリカの研究室に留学した際、それとは全然違う方法を使っており、面食らったことがある。その時の自分の心情としては、「自分はこの方法でうまくやってきた、新しい方法など必要ない」「自分の方法の方が優れている、だから変えなくてもいい」であった。だが、こういう態度は、その研究室の古参の研究員から嫌われる(憎まれることすらある)。
またずっと後になって、自分の母の介護が必要となったとき、母の考えとよく対立したものだ。介護やリハビリというのは、歩けなくなった、立ち上がれなくなった、認知がすすんで金勘定ができなくなった、という「できないこと」を支援するために、ケアマネが介護計画を立て、ヘルパー(他人)が自分の家にやってきて、掃除や調理をやってくれる、入浴の見守りをしてくれる、下肢の筋力維持のトレーニングをしてくれる、そういうことだ。しかし、母が常に気にしていたのは、「できない自分をみてほしくない、隠しておきたい」「できる自分だけを見せたい」というプライドというか、虚栄心にこだわり続けたことだ。どうして「できません」と言えないのか。介護というのは、事実を認めることから始まるのにと、いつもはがゆく思ったものだ。この虚栄心は、その後もあらゆる局面であらわれたのだった。認知機能が怪しくなってきたとき、つじつまのあわない話や同じ話題の繰り返しにうんざりして、筋道を正そうとすると、「お前は母親の言うことが信じられないのか」と立腹していた。その母は、先日突然亡くなったのだが、今でも母の悔しそうな顔や腹を立てていた情景を思い出す。今となっては、自分もなぜあんなに事実や筋道にこだわっていたのか、よくわからない。自分の言いたいことだけ言って、こちらの質問や意図を理解しようとしない頑固な母の態度に、イライラしていたのかもしれない。でも今となっては、自分も含めてどっちもどっちだな、と思う。互いが、「自分のいうことを聞け、自分が正しい」と主張し続ければ、結局は衝突や戦争になるだけである。病いをかかえているのは母なのだから、自分の方が一歩引くべきだったなと思う。
留学先で実験方法を変えようとしなかった私、母の言い分を聞けなかった私、そしてこちらの話を理解しようとしなかった母、いずれも、リフレーミングしたくない(今のままでいたい)という態度そのものである。医学部で文化人類学の実習に批判的な学生と、態度はまったく同じではなかろうか。
なぜ私はリフレーミングに抵抗したのか?
さて次に、どうして自分はリフレーミングに抵抗したのかという疑問が生まれる。私が思うに、「変わりたくない」「面倒くさい」「怖い」こういう気持ちが背景にあるようだ。「変わりたくない」とは、「今のままのフレームが心地よい、邪魔するな」ということだ。こういう人と話しても、たぶん対話にはならない。一方向で自分の言いたいことを主張するだけの会話になってしまう。「面倒くさい」というのは、相手の考え方や体系にそって考えるためには、「思考の体力」が必要になる。その体力を使うのが面倒くさいのである。「怖い」というのは、もう少し複雑だ。自分が正しいと信じていることをリフレーミングするのは、自らを省察すること、自らをメタ認知することである。それは、ある意味で「自分を揺らがせること」「不安定化させること」であり、つよい不安が伴うのである。そもそも自分が正しいと信じている(信じさせられている)こと、正しからんと信じてやるべしと自分に言い聞かせていること(たとえそれが苦しくても)、であった場合、自らの不安定化につながるリフレーミングは危険であり、徹底して抵抗したくなるものだ。「正しいと信じこむ」「そうあるべきと決めつける」ことで、自分を鼓舞させるやり方は、どこか不自然で無理がある。
こういう状況にあるとき、重要なのは無理矢理リフレーミングを強いることではなく、まずその人の言い分をしっかり聞いて、本当は苦しい・弱い・自信がない、そういう本音を語れるような「場」が、大事なのではないだろうか。いつも競争や主導権争いをするのではなく、まずは、安心して本音が語れる「場」が求められているように思う。
リフレーミングの「怖さ」と向き合うために、大切だと思うこと
今回のブログの冒頭に、プールで溺れかけたエピソードを書いたのは、リフレーミングの「怖さ」と何となく繋がっていると思ったからだ。怖いので目をつむって一生懸命に泳ぐ、思いとは違う方向へすすむ、最後に事実を突きつけられてパニックに陥る。リフレーミングを強制されたときの反応によく似ているのではなかろうか。怖くても、ちゃんと目を開けてものごとを見ること。そして、「本当は怖いんだ」「不安でしょうがないんだ」という気持ちを語れるかどうかが、とても大切なような気がする。自分が小学校の頃、そういう思いは語れなかった。「強くあらねばならない」「負けを認めてはならない」と自分に言い聞かせ、やせ我慢していた私は、本当はとても弱虫で怖がりだったんだな、と思うのである。
もし今の自分が過去に戻り、小学生の私に出会えたなら、「怖かったら、怖いといっていい」「自信がなくて、当たり前」「でも目を開いてまっすぐ事実を見ることからはじめよう。それが本当の勇気なんだ」、そう言ってあげたいと思うのである。
Author:谷口 晋一
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