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269月 2023

『今』に目を向ける

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同じ事を何度もきかれるので、今回は教えません 

 私のストレス解消法の1つに半身浴をしながらYoutubeの将棋実況チャンネルを観る、とうものがある。20分程度の時間をつぶすのに、将棋実況はちょうど良いのだ。(ちなみに私は『観る将(将棋は指さないが将棋を観て楽しむ人)』である)

ある日のこと、実況者から「視聴者から同じ事を何回もきかれるので、今回は教えません」と言われ、「私は将棋が強くなりたい訳じゃなく、観て楽しむだけだが……」とモヤモヤした。

将棋系Youtuberとして「視聴者を強くしたい」と考える事を否定はしない。また、同じような事を何度もきかれ、「『進歩』がない」と思う事も仕方がないだろう。だが、『観る将』の中には、将棋が強くなる事を求められても応じられないことに葛藤を感じる人もいるのではないだろうか。私はこれがモヤモヤの正体だと考えた。

 

 

『過去』を生きる現代人 

 『進歩』することとは、すなわち、日常生活の中に潜む不具合に気づき、その原因を分析し、対策を講じるというプロセスともいえる。そして、なぜ我々が『進歩』を論じられるのかというと、それは「過去から連続する現在、そしてその先にある未来」という直線的(linear)な時間の捉え方をするからだ。我々現代人は「過去の延長線上にある『今』」を生きている、ともいえる。(市井の人々が直線的な時間の捉え方をするようになったのは、西洋近代以降のことだが、そのことの説明は割愛する)現代人が『進歩』について論じる時、その背景には「問題のある過去に今、改善を講じることで問題が解決した未来が得られる」という共通の認識がある。この認識は、もはや簡単には疑うことができないほどに我々の生活の中に入り込んでいる。(「私は今日を繰り返している!」と円環的(circular)な時間の捉え方を私が真剣にしたなら、ほとんどの人は「某アニメの見過ぎか…」と私をあわれむことだろう!)

だが、こうした認識によって、時として不具合が生じる事もある。

 

『進歩』がないことはいけないことか? 

 鳥取市の幹線道路沿いには「百回同じことをきかれても、笑顔で答えます」という看板があり、私もそうありたい、と思ってはいるが、実際の所は3回くらい同じことをきかれると「『進歩』がない」ことにいらだってしまう。似たような経験をした人も多いのではないだろうか。実際にそのような体験談はインターネットを開けば数多く見られるし、中には「やる気がない」とか「あたりまえのことができない困った人」と人格否定に走る人もいる。

だが、「『進歩』がない」ことはいけないことなのだろうか?

 

 

『進歩』という病 

 私がそう考えるようになったのは、「困った人」と長く接するようになったことの影響が大きい。彼らと接していると、同じようなことで何度もつまずくことにしばしば出くわす。「お酒を飲んじゃいけないと先生や家族に言われていたけど、また飲んだ」とか「自分をどうにもできない感じがしてまた病院に電話をかけた」というようなことだ。「またか!」と怒りや諦めを感じることも多々ある。だが、彼らと長く接していると、環境などの影響で「そうせざるを得ない」ので同じようなことを何度も繰り返しているのだ、と気が付くようになった。「そうせざるを得ない」ことを医者や家族に怒られることで、医者や家族に対し「どうせわかってくれない」と失望し、自分の殻に閉じこもる。支援者が問題を解決すべくその殻をこじ開けようとするほど、殻は固くなり、支援者は「『進歩』がない」ことにいらだちを隠さないようになる。もはやここまでくると、『進歩』という病ともいえるかもしれない。

もちろん、私が医者である以上、患者の抱える健康問題を解決するという職業的規範から逃れることはできない。だが、性急に問題を解決しようとしても空回りを繰り返すだけである。まず、彼らがどのような生活を送り、どのような問題に直面しているのか、そしてそのような「今」にどのような感情を抱いているのか、をゆっくりときほぐす必要がある。「百回同じことをきかれても、笑顔で答えます」という取り組みが求められるのだが、百回同じことをきかれても笑顔でいられるために必要なことこそ「『進歩』を捨て、繰り返す『今』を生きる」ことではないかと私は思う。

 

 

『今』を生きる 

 どうしても我々は過去を、そして先を見がちだ。だが、「『今』を生きる」ことも、同様に大切なことではないだろうか。刹那に感じる喜怒哀楽を、些細なことが上手くいった時の喜びを、失敗した時の悔しさを、1つ1つの感情に流されず、されど1つ1つの感情を味わい深く感じることで、人生が実は鮮明な色に溢れていることに気が付くことができる。この「今、ここに在る」という考え方は禅やマインドフルネスでしばしば出てくる考え方だ。

私が「『今』を生きる」ことを強く意識するようになったのは、学生時代に友人の突然の死を経験してからのことだ。人間は連続性の生き物であり、どうしても、「昨日から今日、そして明日へ」と考えがちだ。これもあたりまえなことだが、このあたりまえも日常に潜む死によっていとも簡単に奪われる。

このような思想は洋の東西を問わず存在する。古代ローマでは「memento mori(己の死を忘れるな)」のモチーフを食器に刻んだし、ペストにより人口が2/3まで激減した14世紀の西欧では「死の舞踏(La Danse Macabre)」のモチーフが大流行した。インドや東洋では「色即是空、空即是色」のように、仏教や禅の教えにその一端を伺うことができる。

 「『進歩』から離れ、『今』に目を向ける」ことについて考えてみてはどうだろうか。

 

Author:小原 亘顕


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