死が意味するものとアレントの出生性
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医師にとっての死と一人称の死
医師という職業は、死に接する機会が多いということには異論がないだろう。しかし生物学的な死を超えた「死」そのものについて考えたり、それを公言したりする機会は少ない。あるとき若い学生に「先生にとって、死とは何ですか」と単刀直入に聞かれ、どう答えようかと困惑したことがあった。医学的な死について説明するのは容易いが、ここで聞かれていることは〈私〉にとって死とは何かという問いであった。
人にとって、死はさまざまな様相を呈する。フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチは、この〈私〉にとっての死を「一人称の死」と呼び、二人称の死(近しい人の死)や三人称の死(死一般、抽象的で無名の死)と区別した。一人称の死は、生きている限りすべての人が直面するものであり、「自分が死んだらどうなるのだろうか」「死ぬというのはどういうことなのだろうか」という問いは、私たちに常に影のようにつきまとっている。
死を哲学的あるいは宗教学的に捉えていくことは古くから人類がおこなってきたことであり、それについてはおびただしい数の言説が存在する。その事実は科学的人間観が発達した現代においても、昔とあまり変わりはない。しかし、一人称の死、つまり、この〈私〉にとって死が何を意味するかという難問は、誰も答えを教えてくれない問いなのであり、万人にとっての正解はおそらく存在せず、自分で探求するしかない問いである。しかも、真摯にその答えを探求しても「正解」が見つかる保証はまったくない。生きているある時点で「これが答えだろう」と思ったところで、まだその当人は死んでいないのであるから、死ぬ間際までその考えが変わる可能性が常に残されているからだ。
ハイデガーの「先駆的決意性」と死
死の哲学的意味については、『存在と時間』を著したドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが「先駆的決意性」という考えを述べている。人は死に直面するとき、本来の自己に立ち返ることがある。迫りくる死の避けがたさを真正面から受け止め、その自覚から翻って、おのれにふさわしい状況的行為を掴みとろうとする。このようなあり方のことをハイデガーは先駆的決意性と名付けた。ハイデガーは人間存在のことを「現存在」と呼んでいるのだが、この現存在が自分自身の存在において最も真剣に向き合い、責任を持つときの態度が先駆的決意性である。現存在が自己の存在を完全に理解し、自己の可能性を追求できるのは、死を自己の存在の最終的な可能性として認識し、積極的に受け入れることによってであると考えた。
ハイデガーの主張はなかなかに説得力がある。死を深く見つめれば、自分の人生の本当の意味が分かるのではないか。死線をさまよって回復した重病人が、生まれ変わったようになることがある。戦争や災害、事故などで九死に一生を得た人が、人生の深い意義や使命に気づくといったことは実際あるであろう。
アレントの「出生性」とは
しかしながら、ハイデガーに対して批判的立場にたったのがハンナ・アレントであった。ハンナ・アレントとは誰か。アレントは20世紀の重要な哲学者の一人であり、『全体主義の起源』や『人間の条件』を著した政治理論家として知られている。彼女はかつてマルティン・ハイデガーの学生だったのであり、彼の哲学に多大な影響を受けたものの、独自の見解を展開し、ハイデガーの考えに対して批判的な立場をとった。彼女はユダヤ人であったが、ハイデガーが一時ナチスに加担したということも大きな失望の理由の一つであった。(優れた哲学者であったハイデガーがなぜナチスに加担したかという問題については未だに論争が続いている。)
死を重視し、人間の生にとって死こそが大きな意味をもつと主張したハイデガーに対して、アレントは「出生性」(nativity)という概念を提唱し、これによって新たな人間の存在に関する考え方を提案した。出生性とは、アレントが著作『人間の条件』(The Human Condition)で提唱した概念で、人間が新しい始まりを創出することができる能力を持っていることを指す。出生性は人間の根本的な特徴であり、私たちが世界に存在する意味を理解するために重要な要素であるという。アレントは、出生性の概念を通じて、人間の存在は死だけでなく、新しい始まりや創造性を含んでいることを示唆した。出生性は、人間が未来を創造し、歴史を変える力を持っていることを強調するとともに、私たちの行為や選択が新しい現実を生み出す可能性を示している。
全体性(全体主義)に抵抗するために
アレントの出生性(nativity)の概念は、ハイデガーの死あるいは可死性(mortality)と比較して、人間の存在論的基盤の一つとして参照されてきた。アレントが「出生」で意味することとは、必ずしも生物学的な出生(誕生)を意味するのではなく、政治哲学的な意味での「出生」、すなわち、人間が社会の中で他者と関わりながら「活動」することを通じて、新しいものを生み出すことができるという様相のことを指している。これは、近代社会が行き着いた先に全体主義(ナチスドイツとスターリニズム)が登場し、そこでは人間が「脱人間化(dehumanize)」され、人間の「死」の生産工場(アウシュヴィッツやトレブリンカ絶滅収容所)が出現したというおぞましい歴史を踏まえたものでもある。
人間にとって死とは何か。もしアレントにこの問いを問うたならば、こう返答されるかもしれない。「人間にとって死とは何か。ハイデガー先生が考えそうな問いね。でも、私はその問い自体が個人に閉じていると感じる。個人に閉じた存在論からは全体性しか生まれない。社会は複数の人間から成っており、そこでは社会的な死や社会的な生がある。相互作用しあう複数の人間存在の始まりや終わりには、個人の生と死を超えたものがあるのじゃないかしら」…完全に私の妄想である。しかし個人としては死を迎えたアレントの存在は、この複数性の世界の中ではまだ死を迎えておらず、こうして新しい発想を生み続けているとも感じるのである。
Author:孫大輔
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